昭和47年01月23日 月次祭
もう大変長い間、断食修行をしておる方がおられます。なかなか断食をするといったようなことは、なかなかその決断力、勇気がいる訳であります。しかもお茶も水も頂かんなりに、しかも神様からお許しを頂くまでというのですから、もう実に悲壮なもんですね。このまま神様からお許しを頂かなかったら、いつまででもできんのですから。しかしそういうその修行に取り組むということが、その勇気をがいりますから、その元気な心のところは素晴らしい。
けれどもこれを神様がご覧になって、お喜び下さるはずはないと思う。ね、もうそれこそ本当に立つのにも座るのにも、やっとかっとと言う事になりますからね。段々日にちが経ってまいりますと。毎日今日はお許しを頂くだろうか、今日はお許しを頂くだろうかと思うて、ま、お願いをさして頂いとる訳でございますけれども。今日もその事をお願いさして頂いとりましたら、ちいっとこうもれしませんかどうですか、良いですかあちらは。後ろの方聞こえてますか聞こえる聞こえますか。
神様から自分で自分の首を括る様な修行は、ね、と言う事を頂きました。自分で自分の首を締めるような修行。ね、断食修行なんかやっぱりその一例ですね。自分でお茶も飲まん、水も飲まんと言う様な、修行ですからね。自分で自分の首を、締めるような修行なんです。けれども私共が矢張り一生懸命信心をさせて頂いておりますと、自分の信心の内容が分かってまいり心の内容が分かってくる。分かれば分かる程、神様に対する相済まん生き方だなぁ信心しよって自分の心の浅ましさにびっくりするように思う。
私はどうでも信心はね、矢張りそこが分かっていかなければだめだと思うです。別に悪い事はせん別にどう、泥棒がんどんする訳じゃないからと。そんなもんじゃないです。自分自身というものを本気で、所謂見る事見る事、自分を見る事と言う様に、自分というものを本気で眺めだしますと、もう本当にあいすまん私というものが写し出されるのが信心です。それが出てこなければ嘘です。ね、まぁいうならば横着です。もしそれが出てこないとするなら。信心なせん。ね、教えを守る訳じゃない。
それでも拝みよると言う様な事であったら、是は信心の横着と言う事。本当にそれは自分で自分の首を締めるような事ではあろうけれども、そうでもしてでも自分というものを叩かなければ、自分の性根を叩き直さなければ、ね、そういう私は発願から断食修行などというものはなされるものだと思うです。どうぞこれを下さい。何かいうならおかげを頂きたい為の断食修行なんて、もう愈々つまらんと思う。ね、本当に自分というものを分かれば分かるほどです。
神様にお詫びの印に、自分の性根を叩き直すようなつもりで断食でもさして貰うという。だから一応やはりです、そこをさせて貰わなければ嘘です。水行ひとつでけん、断食ひとつでけんごたることじゃ本当は金光様のご信心はでけませんです。成程神様がお喜び下さる修行じゃない。けれども自分というものを叩き直す意味合いにおいてです、ね、肉体にも心にも所謂激しい修行を与えながらでも、ね、本当な自分になりたい、真の信心が分かりたいと、ね、一心発起。
それこそいつお許しが出るやら分からない断食修行をです、ね。まぁ始めの間は三日するとか五日しますとか、神様にそういう願いをたててします。けども段々この頃からここでは愛子がしとりましたですね。次々とこの頃から日田の綾部さんがなさいました。今またやっておる人がありますけども、大分長くなるけれどもお許しを頂かん。ね、そしてその断食をしておる人に対してです、ね、もう自分で自分の首を括る様な修行は止めて、ね、日常生活もう生活そのものが修行にならせて貰わなければいけないぞと。
いう事だと思わせて頂きます。断食修行なんかと例えばなるほど軽視したように申しますけれども本当いうたらです、四神様が仰るように、教祖の神様はこの方の行は火や水の行じゃない家業の行と仰るけれども、四神様にある人が金光教の信心修行は楽でございますなぁと。わざわざ火の行水の行する事いりませんから、というて申し上げたときに四神様が仰っとられますね。ちりめんの帯どもして寝ころんどるごたる者にね、表行がでけるかと。表行のでけん者に心行はでけんわいと仰ったそうです。
恐らくその人がそうだったんじゃないでしょうか。ちりめん帯ども締めてから昼のひなかから寝ころぶような人じゃったじゃなかったか(笑)だから金光様の信心は修行、表行がないから楽じゃというとられます。表行のでけん者に心行がでけるかと仰った。ね、断食でもさしてもらう、水行でもさしてもらう、それが神様が喜ばれるのじゃないけれども、自分で自分の肉体にも、心にもです、叩く思いで自分を叩き直すような思いでです、それこそ十日でも十五日でも神様のお許しを頂くまでは。
水一滴頂きませんと言う様なひとつ発願でもでける位な信心が先ずでけなきゃだめです。ね、そこでですんなら今日断食しとる人達が今晩限りでおかげお許しを頂く訳でございますけども、さぁ是からはこの様に辛い苦しい事であろうがと、ね、ですから家業の行の中にです、本気で教えを頂かして頂いてです、修行ならば修行がね、有難ぁくなるような修行でなからにゃいかん。
段々苦しくなってくるような修行じゃつまらんと言う事なんです。ね、例えば朝のお参り、朝の御祈念の修行でもさして頂くと言う事はハァーお参りしてよかった。さぁ起きる時は眠かもある、寒いもあるけれども、さぁ御祈念を頂いて御理解でも頂いてはぁお参りしてよかったと思うでしょう。金光様の信心修行はそういう修行じゃなからにゃいけんとこう仰る。お参りせんどいてから、時々断食したりどうかというような事ではいけんと。ね、けれども私は、ね。
本当に表行のひとつも、させてもらわなければおられんところから、金光様のご信心はなさなければつまりません。水いっちょ、ね、もう表行のうちで水行どんが一番やすかでしょう。水行いっちょでけんくらいなことで、金光様の信心を頂こうといったって、おかしいです。本当な信心頂こうなんてできませんです。表行のでけん者が心行がでけるかと、四神様が仰った。
だからその表行もです、卒業してせんですむ程しのそして心行にならせて貰う、家行にならせて貰うというお互いの信心が育って行く所から、そこから始めて金光教的な本当のよい信心が生まれてくる。過程においてはそれは素晴らしい事なんだ。ね、自分で自分の首を括る様な修行をするなと。けれども自分で自分の心、やはりそれこそ首に縄をつけるような思いでです、修行さしてもらうという。そうしてでも本当な信心を分かりたいと言う様な熱願をもってすることは、これは素晴らしいこと。
神様は喜んでは下さらんけれども、喜んで下さるです。まぁ変な言い方ですけど。いうなら雨の降る日はおじゃるなというに、濡れておじゃればなおかわいいというものだと私は思うです。神様はその事は喜じゃ下さらん。もうこげん雨ん降る日に来るこたぁいるかいということある。しるしかつ実際親が見るもんだから、そこで。ね、それでもやはりやむにやまれんというて、濡れてでもくればまたなおかわいいということになってくるのです。私は金光様の信心修行観というものはそうだと思う。
そこにあるのだと思う。ね、お参りはせんでんよか、お供えはせんでんよかも金光様の信心な楽なと、と言う様な人に信心が分かる筈は絶対にありません。金光様のご信心は。ね、お供え物といわばおかげはつきものではないと仰る。ハァー金光様の信心ちゃそれがほんなもんじゃろう、楽なと自分が出さんでよかとこだけばほんなもんと思うとる。出さにゃおられん、そうしなければおられないそこにおかげが頂ける。その奥を知らなきゃでけん。ね、そげんあんた日参り夜参りするこたぁいらんが。ね、
まぁ家業の行ばい心行ばいと。家業の行が心行がでける筈がない、絶対でけよるごつしてでんです。でけとる筈がなかです。所謂四神様が仰る通り、表行のでけんものが、心行がでけるか。それはね普通でいうならばです、ね、ま修養的なことならお参りせんでも修行せんでも出来ましょうばい。ね、小学校の時習ったあの修身科ぐらいなことならでけましょう。けれども神様に通うような心行がです、修行なしに頂ける訳、頂けるはずがないです。これはも、絶対。ね。
そこで同じ修行させて頂くならば、自分で自分の首を括る様な、ね、ような修行ではなしにです、その修行が修行の後に有り難いなぁという実感が伴うような修行でなからなければいけないというのである。今日は一日不平不足をいわんぞと、今日は人に垢離をつませるようなことはいわんぞと、例えばそういう修行して一日過ごさせてもらって、ね、御神前にぬかずかせてもらう時、本当にその修行がなるほどもうここじゃ言うとうてたまらん、そうしなければおられない。
けれどもじっと金光様、金光様で修行させて頂いた。あぁ修行させて頂いて良かった。いわんで行わんで良かったと喜びが伴うてくる。そういう修行じゃなからにゃいけん。そういう修行になっていかなければならない。ね、そこで私はその表行なら表行の内でも一番ありがたいのは、朝参りだと思うですね。只今寒中修行です。もうここいっぱいの人達がそれこそ熱気を帯びた御祈念修行があっております、ね、そういう修行にね、それに便乗させてもらう。ね、そしてその修行が有り難いと分からして貰う。ね、
成程四時の五時のと起き、その頃はまぁだ暖かい布団の中でぬくぬくしとして寝とられるということは、ね、それは極楽のごたるけれども、絶対極楽にはつながらないです。暖冬や、火葬場までの浜づたいです。ね、暖冬というのは、今年のように冬がこんなに暖かい。いかにも今年の冬は暖かでよかですのち、いう人もあるけれども、それでは自分で自分の首を締められておるようなもんですよ、本当は冬は冬でやっぱり、ね、それこそ身を切るような寒さというものがあって始めて素晴らしいのです。
暖冬や火葬場までの浜づたい。ね、成程ぬくぬくとしとったがよか、充分寝たがよか、それで金光様というておかげの頂ける金光様は絶対そげなこっちゃおかげは下さらん。所謂私がいうのは本当なおかげですよ。今日は珍しい人がお昼にお参りをして来た。北野の関さんがお参りをして。しかしタイミングの素晴らしさ、おかげお繰り合わせということがやっぱ必要だという事が感じられますね。今、娘達がちょっと外行っていない。で、自分がひとり。そうしよる時にです。
私ゃ金光様今はお参りをしよらんけれども、もう金光様の信心を一生懸命昔させて頂いて、もう本当に一生懸命の時にはどげなおかげでん頂くですよという話をそのある方にしよった。自分が一生懸命の時にはこげなおかげも頂いた、あげなおかげも頂いたち話しよった。そしたら電話がかかってきた。ね、岡崎さんから先生今日私は暇じゃけんで、お参りをしなさんなら車に乗せて行きますよ、わざわざ久留米から電話が掛って来た。やぁそんなら実は私も今、金光様の有り難い話ばしよるとこじゃった。
ああたができるならお願いします、ちいうたらわざわざ久留米から北野まで迎えに行ってやった。して関さんと二人でお参りをして来た。ね、そうしてです、もう本当に信心を止めましたけれども、お参りは止めましたけれども、家にはもうあんなに麗れいしゅう、立派にお祀りをしてございますから、ね、それでもやっぱり、そのおかげを受けますと。けれどもね、最近ね、こりゃあ修行せなきゃやっぱ金光様のご信心の本当なもんじゃないてなことが、少ーし娘達とも話し合うようになりました。ね、
一年か一年半になりましょうか、お参りを止められましてから。大祭なんかの時にはちゃんとこうお供え物やら言付けたりされます。家では一生懸命拝みござる。家では一心に拝みよるとやっぱ一番始めに出てくるとは親先生のことを心の中に思い浮かべますと。ね、ここ一年二年はなるほどそれでこりゃ楽だな、これの方がと思いよったけれども、最近は修行抜きにした信心じゃ、こりゃいけんばいちいうて娘と話をしあっておりますけれども、なかなか敷居が高こうなってお参りがでけませんでしたけれども。
今日は愈々神様の御おかげを頂きましたと思いましたと。その素晴らしいタイミングがありがたい事で御座いましたとこういう。有難いおかげ話をしよる所へ岡崎さんから電話がかかって来たという訳なんです。ね、そして信心修行修行が修行は一生が修行じゃというのが金光様のご信心なのですから、ね、しかもその修行がだんだんだんだん高度なものに、豊かなものに、美わしいものに神様が愈々喜んで下さるほどしの修行。自分自身の心の中にも、学者がメガネをかけて本を読むようなものである。
年をとっても。それは学者がメガネをかけて本を読むと言う事は、学識が学徳がだんだん身に付いてくる事が楽しみなのである。毎日読まなければおられない。それはメガネをかけてでもやはり読まなければおられない。それが金光様のご信心の修行なのです。だんだん信心の徳が身に付いてくることがもうありがとうしてたまらん、限りなしにありがとうなっていけれる事が楽しみに信心しよる。だから体が弱いとか貧乏しとるという修行がいつまーでも続いておることが絶対あってはならない。
段々段々所謂心行ができて、ね。有り難い修行、しかもそれが一生でなからなければならないと教祖は教えておられます。だからそういう修行を目指してからの信心修行でなからにゃならん。ね、ためにはね、私は断食修行やら水修行やらを奨励する訳ではないけれども、自分達の心の中にです、自分自身が分かれば分かるほど、そうでもしてお詫びでもしなければおられない。そうでもしてでも自分のこの性根を叩き直さなければおかれないというほどしのです、私は意欲は素晴らしいことだ思うですね。
そして始めて成程表行のでけん者に心行がでけるかと仰った四神様のお心が分かる。ね、この方の行は、ね、家業の行とか、心行だから楽なのだと言う様な信心修行ではもう絶対につまりませんです。楽なからち、ね、段々高度になって自分の心がもうそれこそ神様と神様付き合いができるごつなってからなら、そりゃまだいざ知らず。ね、それこそ暖冬や、ね、火葬場までに続くような、ね、浜づたいを歩いておるような信心ではいけません。信心修行がありがとうなり、信心修行が楽しゅうなる。
そういう修行を目指す。その前提としてです、私が自身は自分というものが分かる。教えの鏡に照らすところにハァー本当に教えの鏡を前に立てない間は、汚れておるやら汚れていないやらそりゃ分からなかったけれど、鏡を立てて前を見たところが自分が幸せになれないもとがいっぱいあることが分かる。お互い真の幸せを願わない者は一人もない。そこで真の幸せにならせて頂く事の為に自分が分かる。そこから改まった生活を研いていく生活というものが、始められてくる。
昨日は田主丸の共励会でした。共励会から帰ってくるのを待たせて頂いて、すぐ休ませてもらった。文男先生がこちらへ行く時には必ず奉仕をしてかえります。足を揉んで行く。したら昨日、一時間ぐらいもんでもらったでしょうか。もんでもらいながらどうもこの胃の辺が、こう何か痛みだす様な感じがする。だから胃の方もちいっとばっかり揉んどいてくれんね、ちいうてから言いましたから、胃の方を一時ばかり揉んでそれから休まれた。もう文男さんが休んであるかと思うくらいから私の胃が痛み出した。
もうその痛みというのが、もう始めてもう艱難なしの痛みですからね。もう生汗が出る。とにかく今そこに休ませて頂いとりますが、そこからここまでそれこそだんごろりんするようにしてから御結界に来てから御神米を一体頂いて、御神米を一体頂いた。ま汗がいっぱい出て寒いけれども汗が出る位ですから、ここにしばらく御結界の机にしがみつくようにしてから頂いとりましたら、おかげで少うしこう折り合った。
それから休ませて。本当にもう私は御神米の御威徳というものを昨日ほど感じた事はございませんでした。噛んでね、御神米を。噛んでもう胃の方に入っただろうと思うころから途端ですからね、すうっとこう治まるような気が、その苦しいけれども苦しさが薄らいだ。それからここから寝床まで行く間は、もう立って行けれるくらいにおかげを頂いた。それからちょうど三時まで、もう一番苦しい。
もうそれこそ寝たり、こうかがんだりして、そのしとりますけれどもね、そしたらね、家内の御祈念を頼めと神様から頂いた。ね、それから御理解にね、それから家内を起こそうと思うてからまいりましたけれども、いつも納戸に休んどるとにおりませんもん。こたつの間にもおりませんもん。そうしよったら愛子がご神飯炊きに起きてきましたから、ちょっとお母さんを呼んでくれと、というてお母さんを呼んでくれましたから参りましたらまた御理解を頂きました。
御祈念を頼む。ね、後家になるかならんかの境と思うて願えという御理解、家内に。これは家内に対する御理解だった。そんなにひどかったんです。後家になりか、ね、ならんかの境と思うて祈れと。ええですか、家内に御祈念を頼むというとこは頼むですよ。頼む、私が頼む、けれどもその次の頼みはもう神の頼みですわね。お母さん御祈念してくれというのは私の頼み。けれどもそれから家内が参りましたら、ね、後家になるかならんかの境と思うて御祈念をせろというのは神様の願いである。
出らせて頂いて、ものの三分か五分もたたないうちでございました。もうその別に吐き気がしとるわけでもなかったのに吐き気がいたしますから、どうにもしょうがないですから私このお盆にこの水をいつも用意しとりますから、水それを取ってからお盆の上にたくさん吐かせて頂いた。それから一時間くらい家内がっと三十分くらいでしょうかね、三十分くらい御祈念した時分に大体こうだいぶ治まったから、愛子にお母さんに大変おかげを頂いたからお礼を申し上げてくれというて。
まだ御祈念をしとる家内にお礼を申させてもろうた。それでもまぁだ痛んどる。まだ起きられるほどじゃない。けれどももう四時がいわゆる刻々と近づいてまいりますから、四時の御祈念だけはお許し頂かにゃならんと思うておりましたが、四時前十分でした、すきっといたしましたのは。それから四時前十分には私奉仕着を付けていつものところに。それから幹三郎がやってまいります時には、もう平生のまではいかんけれども、ま、このまま御祈念が出来るというところまではおかげを頂いとりました。ね。
それからご神前に出らせて頂いてから、御祈念をさしてもらった。そして御結界に着かせて頂いたらまた痛みだした。それで御結界をご無礼いたしましてから休ませてもらった。ね、私は今日皆さんに分かって、今までずーっと申しましたことは、とおんなじことなんです、ね、大酒大食は絶食の元になるぞと仰る。昨日確かに大酒大食をしとる。でなくても、もう大体がいやしんぼうですから、私は飲み過ぎ食べ過ぎ(笑)ね、これなんかはです、自分で自分の首を締めるようなことですわね。
大酒大食は絶食の元になるぞと教えておられるのに、ね、食べたい放題、飲みたい放題のことをするなら自分で自分の首を締めるような事。もう私は昨日はもう死ぬるごたったちちから、秋永先生に言うたら秋永先生がにこっと笑うちから良かったですね、ちいうごたる顔しとる。(笑)そうりゃきつあんなさった、どうかいうかと思ったら、そりゃ良かったですねちいうごたる風な顔しとるけれども、やっぱそうなんです。ああたが日頃が日頃だけんで、そげなこつくらいある。
なかないかんち言う事じゃなかったでしょうかね。(笑)ね、だからその大酒大食そのものも食べる時には美味しいうまいのですから、ね、それもやはりおかげなんです。そして例えば絶食の元、今日一日なにも食べておりませんが、夕方お粥さん、ご神飯少しやおにして少し頂いただけなんです。所謂絶食のもとになることは、自分が自分で作っている訳なんです。けれどもです、その作っておるその事もおかげだということ。大酒大食をするという事もおかげだということ。
これは自分で自分の首を締めるようなことでもこれは今日は断食修行の話をしたが、その断食修行もそのものもやはりおかげだという事と同じなんですよ。ね、断食、例えば大酒大食をするから絶食の元になるようなことになるのだと。そして私がそれこそ見た目にでもです、ハァーこれはお父さん難しかっじゃなかろうかと思うように例えば愛子なんか感じたらしいです。
そこでです、んなら家内に対する後家になったと、後家になるかならんかという境、そういう気持ちで御祈念をせろということ。家内が御祈念に出てまいりました。それからおかげを頂いてお礼を申させて頂いてお礼を申させて頂いておりましたら、ご心眼にです、おなごん人が後向いとるとこです。足のとこがこう別れとるこうやって。こんなにお尻が重かです。おなごの尻は太かハァー尻の太かとこをクローズアップして頂く訳です。そして向こうむいとる。
後からじゃんそしたらですね、座ったままびゃっと是位飛び上がった所を頂きました。(笑)座っとるまま。もう愈々ん時愈々ん時にはもうそげんです。ね、そして有り難いなぁ、苦しゅうはあるけれども、苦しゅうはあったけれども、有り難いなぁ無駄ではなかったなぁ、大酒大食もまたおかげであったなぁという事になるのです。ね、大酒大食ができると言う事は、日頃強い胃腸を頂いとるからこそでける訳ですから。
だからそれもおかげなんであり、大酒大食しょうと思っても食べるもんもなか、飲むもんもなかならね、食べられんとじゃから。けれどもさぁ飲もうと思えやここにある、食べようと思えば、ここになんでもあるというほどしのおかげを受けておるという印なんだ。おかげなんです。けれどもそれは自分が絶食の元になるような修行なのです。断食修行とは自分で自分の首を締めるような苦しみを今日一日私は味うた訳なんです。ね、ところがです、私がそのような苦しみを味わいましたところがです。
家内としてもこの頃寒中修行だというのにです、ね、出てきとらんことがある。ね、ハァーこげなこっちゃいかん、こげなこっちゃいかんと自分も思よるに違いはない。それこそ尻は重いちいうのは、この尻が大きかったとこ。尻が重か。オイコラーっいうたっちゃ、ちょいと尻が重い。こん奴ばっかり尻が重いちいうでしょう。尻の重か、そりばってん、今日はもう親先生死ぬか、死なんかちいうごたる、もう自分が後家にならんか分からんもんだけんで、飛び上がった。びゃっと。ね。
だからこのおかげだってたいしたおかげでしょうが、ねぇ。ですから人間生身を持っておりますからです、やはり大酒大食の時もあるけれども、それがおかげにつながっていくような、おかげでなからにゃいかんという事。またそれが頂けれるのが、お道の信心だということ。信心さして頂くなら本気で、表行の一つも取り組ませて頂くくらいな意欲がなからなければ、とても朝参りはでけやせんと言う事。そして始めてなるほど表行の味が分からんで、心行が分かるかと仰った四神様のお心が分かると言う事。
先程若先生達夫婦が見舞に来てくれました。私聞かせて頂いて有難いと思うた。今朝の御祈念に若先生がここを奉仕させてもらう、光昭がここへ出らせて頂いた。御祈念させて頂いた。恐らくは父のその死ぬか生きるかというほどしの、いわばその姿を見ておりますもんですから、それこそ私の体にお奉替えが頂けるならと言う様な祈りをしたのじゃないでしょうか。もう途端からやっぱお腹がせき出してから今、今日とうとう出しれなかったくらいに、お腹が痛んでおる。
こりゃ子供にほんとにそういう思いまでさせてあいすまんと思うけれども、それとても今いうように、それによって彼がまた新たな信心をそれこそ飛び上がればよいと私は思うのです。家内がここに、ここに出らせて頂いて、ね、その事をお願いさせて頂いた途端にご神前においさみがあったと、ハァー神様おかげ下さると思うてまた一生懸命拝んだと。これからは私の心の中になんとはなしにだらっとしておった信心を引き締めますから、神様どうぞというて祈った。それが飛び上がった。
だからその事もまたありがたいことになってきた。若先生達夫婦がやって参りましてその事を話すのです。ね、今日は竹内恵美子さんが今朝からお夢を頂いた。若先生が死んでござる。それで若奥さんがまた他のご主人誰か結婚しなさらにゃならんということになった。だからどなたと結婚しなさるじゃろうかというお知らせであった。私が頂いたそれとおんなじ事を頂いとる訳です。ね、そこで若先生が考えた。ハァーこりゃ良子さんにまた他の息子さんどんが来るならと思ったでしょうたい。(笑)
それで本当に先生これはやっぱ性根を入れ換えて、こりゃおかげ頂かにゃいかんと私の枕元で話すんですよ。ハハァー私や家内だけが飛び上がったかと思うたら、これはいわゆる若先生どん夫婦まで飛び上がったことになったわけです。まぁだまぁだ分からんけれども、もっともっとあるです。目に見えてないおかげが。ね、そういうようにおかげというものは深遠なものなんです。ね、大酒大食は絶食の元になる。
なるほど絶食の元になった。そこで私は今日参って来る人達に話しておることですけども、どういう事が起きろうが、どういう例えば苦しい思いをさせて頂こうがです、只その苦しいところからおかげを頂いてよくなったとか、道が開けたというだけではなぁん値打ちはなかばいち私は言う。私が一日例えば苦しんだけれども、おかげで今日は楽にお祭りが仕えられたというだけでは、なぁんもならんという事。一日苦しませて頂いたら、おかげで家内が飛び上がった。
若先生どんが飛び上がったと言う様なおかげに繋がっておかねばいけないと言う事なんです。そこでです私日頃いっておるように一切が御事柄として、御という御の字をつけて頂け、成り行きを大事にせよ、ね、一切が神愛だといわれるのは、大酒大食をして絶食の元になること、その事自体も神愛だという事。今苦しいと思っておるけれども、それこそ苦しい時にはもう金光様だけじゃ出らんですね。教えなんか思い出す思い出されんです。ね、そういう風に苦しいけれどもですそれとてもやはり神愛だという事。
そこをお互いが分からせて頂く事の為にです、ね、表行はするな、お道の信心は心行ぞと。お供えはせんでもおかげはやると仰っても、お供えもさせてもらわなければおられない、表行のひとつも、それこそ願ってでもさせてもらわなければおられないというほどしの意欲を持ってです、神の心を知れということ。くるなと仰るけれども、ね、雨の降る日におじゃるなというのに濡れておじゃれば尚可愛いという普通の愛ではない、まいっちょ向こうの愛を獲得せよということ。
神の愛を。ね、成程お供えはせんでも参ってこんでも、おかげは頂くけれども、そのまいっちょ向こうのおかげを頂けということなんです。ね、どうぞひとつ皆さんが、せっかく信心をされるのでございますから、その信心修行が有難いものになってこなけば。ありがたいものいうなら信心修行の後味がです、ね、段々自分の心が高められていくところの喜びがです、修行もいとわないということになってくるのである。いわゆる一日、例えば様々な信心修行に取り組ませて頂いて、今日もこの事に取り組ませて頂いたと言う事がです、心の底からありがたいなぁ。
信心生活とは有難いなぁと思わせて頂けるような、ね、有難いものが伴う、信心修行をさせて頂かなければならんということでございます。どうぞ今日の御理解をひとつ皆さん本当にね、大変今日の御理解は、深い意味ですよ、大酒大食もまたおかげというところあたりをですね、んなら帰っていっちょうんと食ぶうかちいうごたるこっちゃなかですから、どうぞね、(笑)ようく、その辺のところを頂き違えんようにしませんとん、今日の御理解は大変おかげを頂くこと、お徳に触れていくことと同時にです。
頂き違いますとまた。断食の元になるような結果になるかも知れません。それをおかげにしきればまぁだいいですけれどもね。私の一日の修行が、例えば家内だけかと思うとったら、若先生達夫婦の上にもその事がおかげに、いやいやまだまだ気がついていないけれども、随分おかげというものは深遠なもの。目に見えない所にその私の一日の修行が行き渡って言った事であろうとこう思う。してみると今日も結構な修行さして頂いて、ありがたいと言う事だけにしかならないわけでございますよね。
どうぞ。